このページでは、谷津山周辺の史跡の詳細をご紹介致します。
①音羽山清水寺(おとわさん きよみずでら)
清水寺は、永禄2年(1559)今川氏第八代氏輝の遺命で重臣朝比奈丹波守元長が創建した真言宗の寺です。地勢が京都清水寺に似ていることから同じ寺名を付けたと言われています。
その後徳川家康公の帰依を受け、慶長7年(1602) に観音堂(静岡県指定重要文化財)を再建寄進されました。
本堂と庫裡は、それまでの庵室造りの質素な建物から大きく変身し、昭和6年中国風の鉄筋コンクリート造りで建立されました。(それぞれ国登録有形文化財指定)
除夜の鐘
毎年、除夜の鐘を鳴らす鐘楼(国登録有形文化財指定)があります。この鐘は寛永11年(1634)三代将軍家光公が上洛の折、駿府町民に下賜米1万3千石を賜ったとき、配分した残りを金に換えて「分時鐘」を作り、朝と夕方2回鐘を撞いたそうです。この鐘は当初両替町に設置され、その後移転し、明治44年清水寺に移されました。
清水寺境内にある句碑
松尾芭蕉の「駿河路や はなたちばなも 茶のにほひ」は静岡のミカンとお茶を詠んだ句として有名です。この句碑のほか駿府俳壇の時雨窓・雪中庵一門の句碑が11基ほど境内にあります。
きよみずさんの花火
清水寺では、夏の風物詩、“きよみずさんの花火”が毎年開催されます。(7月9日に日にちが決まっています)
由来は、徳川家康公が自らの念持仏である千手観音菩薩を観音堂に奉納され、清水観音四万八千日法会の功徳日として、観音堂を開いて “大護摩の修法” が営まれ、同時に「奉納花火」が打ち上げられたそうです。
②清水山公園(きよみずやまこうえん)
清水山公園は、明治42年(1909)静岡県下で最初に作られた市立公園です。滝の右奥の石碑は「中村嘉十君功勞碑」で、この方が最初に公園を創った方です。
その後大正6年(1917)、静岡茶の振興に功績のあった大谷嘉兵衛氏が山上山下の公園整備として、土地と3000円というお金を寄付して現在の清水山公園が誕生しました。その業績を顕彰するため全身像の立派な銅像が建てられました。この時の銅像は太平洋戦争の金属類回収令のため一時取り払われ、昭和40年に胸像となって再建されました。また高さ6mあった台座も今では駿府城公園にある戦歿学徒の慰霊塔「やすらぎの塔」 の台座になっています。
公園内には、常夜燈形で柱部分に「JOPK」と書かれた「ラジオ塔」も建てられています。
③天叟山元長寺(てんそうざん げんちょうじ)
元長寺は、今川家の重臣で、今川義元公の娘婿でもあった朝比奈元長(もとなが)が開祖となり、永禄2年(1559)その屋敷内に創建されました。本堂の裏側の墓地には、高さ90㎝程の自然石の墓塔が現存します。
子育延命地蔵は、山門前に広がる駐車場の入口脇のお堂の中に、観音像と並んで祀られています。
④沓谷霊園(くつのやれいえん)
この霊園は、大正9年(1920)静岡市最初の共同墓地(市民霊園)として第4代市長伴野欣平が静岡市の社会福祉事業の一貫として経営したことに始まります。
宗旨に関係なく埋葬できることから、仏教以外の神道、キリスト教など様々な人々が眠っています。
ここに眠る人々の中では、霊園を造った静岡市長伴野欣平、公立静岡病院長井上豊作、徳川慶喜邸の家令だった梅沢孫太郎、静岡精華学園創始者杉原正一、軍艦三笠館長井手麟六、無政府主義者で大正12年関東大震災の際、軍部によって扼殺された大杉栄らが知られています。
⑤大森山長源院(だいしんざん ちょうげんいん)
長源院は、山号を大森山、院号を長源院と称する曹洞宗の寺院です。
戦国時代初期(1488)に開山の覚山見知和尚が、今川氏重臣の朝比奈氏から所領の寄進を受けて創建されました。
長源院の周辺地域は「山脇」と言われており、徳川家康公は山内一豊の叔父にあたる七世勅特賜朗月清光禅師在川謙昨大和尚に会うために「山脇に行け」と命じて長源院に立ち寄られたそうです。
俳諧の白兎園14世宇式正親、文化勲章の洋画家で三保で富士を描いた和田英作等の墓があるほか、北大寮歌を作詞した横山芳介の墓と”都ぞ弥生の碑”があります。
⑥貞松山蓮永寺(れんえいじ)
富士川町北松野にあった芳樹院を、家康公の側室“お万の方”が元和元年(1615)家康公より寺領を賜り、彼寺を移し蓮永寺として再興されました。
地元では“みまつさん”と呼ばれ親しまれているお寺で、“養珠院お万の方”の供養塔があります(静岡市指定文化財)。お万の方は、徳川御三家の紀州徳川家祖の頼宣公と水戸徳川家祖の頼房公の生母として有名です(水戸黄門の名で知られる水戸光圀公はお万の方の孫です)。この宝篋印塔(ほうぎょういんとう)は、高さ4.6mで石彫も優雅で美しい石塔です。
明治維新以降、徳川慶喜公、家達公に付いて駿府に移住してきた通称“お泊まりさん”と呼ばれた旧幕臣の墓も建ち並んでいます。主な人物を挙げると、江戸後期の駿府代官岸本十輔、勝海舟の母と妹(佐久間象山の妻)を始め、静岡事件首謀者湊省太郎、静岡藩学問所教授・吉見書店創業者吉見義次、初代静岡市長星野鉄太郎などのお墓です。
建物としては、山門、仁王門、鐘楼、魔利支天堂(旧塔頭隨量院)、庫裡、書院、客殿と並び、本堂は、静岡随一の五間×六間の広さがあります。また、門を入ったところには“大いちょう”があり、黄葉の季節は、素晴らしい景色がみられます。
⑦洞谷山龍雲寺(とうやさん りゅううんじ)
龍雲寺は、永禄11年今川義元公の生母寿桂尼の菩提寺となった曹洞宗のお寺です。
寿桂尼は、今川氏第七代氏親公の夫人となり、氏親の晩年、中風気味で自ら国政をとることが困難であったため、夫人は女性として初の公的文書(彼女の印判「歸」(とつぐ)がおされているもの)を発行し政務に関与し、今川時代の頂点を築くのに貢献しています。夫の没後、剃髪をして寿桂尼と名乗りました。そして氏輝、義元、氏真の3代約40年にわたり政務を補佐して「尼御前」として絶大な権力を示しました。今川氏と武田氏、北条氏との「三国同盟」を結ぶのに力を発揮したり、隠然たる存在感を発揮し、亡くなる前、「死して今川の守りとなる」と、今川館の鬼門にあたるこの地に葬ることを遺言したと言われています。お墓は、静岡市指定史跡です。
⑧愛宕霊園と12ヵ寺(あたごれいえん)
愛宕霊園は観音山とその北側に形成された寺院団地及び市営霊園です。ここに12ヵ寺があり、大半が市街地にあった寺々で、昭和15年の静岡大火と20年の静岡空襲で焼失したため、復興計画により移転してきたそうです。日蓮宗のお寺が5寺、臨済宗のお寺が5寺、時宗のお寺が1寺、浄土真宗のお寺が1寺の12ヵ寺です。
⑨菩提樹院(ぼだいじゅいん)
菩提樹院には、静岡市指定文化財になっている「駿河国国分寺塔心礎」があります。本堂の左前に置かれている手水鉢風の石がそれなのです。この石には刻銘があり、明和8年(1771)時の駿府城代が鎮守社に奉納するために小判型に広げて手水鉢にしたそうです。この小判型の穴は心礎部分(塔の心柱の礎石)の舎利孔で、元は円形で大きさは直径約35センチあり、甲斐国・伊豆国分寺とほぼ同寸であることから、「駿河国分寺塔心礎」と認定され、平成7年静岡市指定文化財となりました。
またここには、「由比正雪首塚」(五輪塔)があります。慶安4年(1651)三代将軍家光公が亡くなった直後、“慶安の変”と言われている江戸・駿府・京都・大阪で同時に幕府転覆を起こす計画が事前に露見し、由比正雪は駿府の梅屋町の旅籠で捕らえられそうになり自刃しました。その後正雪一味は安倍川原弥勒の地で処刑され曝首(さらしくび)された。この首を、縁者の女性が秘かに盗み弥勒にあった正念寺に葬ったと伝えられています。その後正念寺が廃寺になった時、十三仏は来迎院に、首塚は菩提樹院に移されたそうで、その後当地に移転の際、首塚も移転してきました。
尚、この“慶安の変”以降、駿府の町では、城代を補佐し、駿府城を警護することを主務とする“加番”が追加され“三加番”になったことも付け加えておきます。なお、この加番は駿府城と大阪城の2ヵ所にのみ設置された役職です。静岡の三っの加番には、稲荷神社が勧請され、それぞれ桜がきれいですので、お花見にお出かけください。
⑩愛宕神社(あたごじんじゃ)
愛宕神社は、天正後年(1582~1589)鬼門除けとして山城国愛宕山権現を分祀して創建したのが始まりで、その後徳川家康公が社殿を造営し、陣中守護の勝軍地蔵尊を祭ったと言われています。
谷津山界隈は、今川館や駿府城の北東いわゆる“鬼門”の方向にあり、陰陽道では鬼が出入りする方角と言われ、その対応として寺院や神社が建てられてきました。
神社の由緒を物語るものとしては、享和元年(1801)に建てられた「愛宕山常夜灯」が、二の鳥居を潜った左右にあります。この石灯籠は、小堀遠州の孫の小堀政恒が駿府一加番役の引継ぎ代行として来府したとき奉納したもので、茶人大名らしく斬新なデザインです。
毎年2月に行われる例大祭では、地元の小学校の男子小学生が「お供物係」、女子小学生が「浦安の舞」を奉納します。
⑪愛宕山城(あたごやまじょう)
谷津山の東端にある小高いところが愛宕山です。ここには昔「愛宕山城」がありました。築城や城主については記録がなく明らかではありませんが、室町時代に土地の豪族「長沼五郎宗政」によって築かれたとの文献もありますが、この人物は鎌倉時代の人と言われていますので、この話を鵜呑みにはできません。
今川氏の時代には、南と北に街道をおさえる戦略上の要衝として重要な役割を果たし、今川館を守る防衛支城のひとつと考えられていますが、永禄11年(1568)12月武田信玄駿河侵攻に際して、落城した記録が残っています。城の遺構は、愛宕神社の境内地となったことから、開耕や土地開発がされず、曲輪・土塁・空堀・虎口などが残っています。
⑫旧東海道 長沼一里塚址(ながぬまいちりづか)
旧東海道の一里塚は慶長9年(1604)江戸日本橋から京三条大橋まで126ヵ所に設けられ、街道の両側に一里(約4キロ)毎に榎などを植えた塚が造られ、東海道を行き交う旅人の目印にしました。
長沼一里塚は江戸から44里目に当り、幕府が作成した『東海道分間延絵図』にも描かれています。塚は明治9年に取り壊されましたが、昭和8年に建てられた碑があり、その位置を示しています。明治中頃まで塚の一部があったそうです。
⑬静岡県護国神社(しずおかけんごこくじんじゃ)
明治維新以来の県出身の戦没軍人7万6000余柱の御霊を祀る社。
護国神社は明治32年「共祭招魂社」として北番町に創立され、昭和14年静岡県護国神社と改称。15年手狭であったため、県民の総意により移転が決定し、一面の田圃であったこの地に、17年10月に竣工、遷座しました。10万平方メートルの境内には移転と同時に植えられた多くの樹木が生い茂り、谷津山を背にして木造流造の社殿が建っています。例祭は10月22・23日に行われます。
手水鉢
この御手洗石は、九州福岡県博多在の産で、当神社が昭和17年10月現社地にご遷座のとき、静岡県本通り一丁目の手塚六郎治氏より奉納されたものです。
当時は、大東亜戦争苛烈下で運搬は容易ではなかったが、陸軍大佐の命によって、汽車で輸送されました。大きさは約14平方メートル(畳9畳半)あり、全国で最大の御手洗石です。
⑭谷津山一号墳(やつやまいちごうふん)
日本列島に古墳が造られるようになったのはいつ頃からでしょう。弥生時代、稲作が始まり、集落ができ、その中から力の強い豪族が生まれ、その権力者の墓が古墳です。当時、ヤマト朝廷が一大勢力となり、私たちの住む静岡は「廬原の国」と言われ、盧原君臣(イホハラノキミオミ)という豪族が支配していました。この人は、後年の663年朝鮮半島百済救援のため派遣され、日本軍が大敗したという古代史上有名な「白村江(ハクスキノエ)の戦い」に倭国軍の大将の一人として参陣した方です。
谷津山には四つの古墳があり、一番大きなものが“谷津山一号墳”です(実測図)。全長110mの前方後円墳で、造られたのが4世紀前半と言われ、静岡で最も古いの古墳のひとつと言われています。
谷津山一号墳の埋葬者は、静岡・清水平野を一望できる見晴らしの良い山頂にお墓を作り、出土記録にあるような権威の象徴である鏡の多さや石製品など豪華な副葬品から廬原国の首長級の大王墓であったと推定されています。古墳の上の木立の中にある柚木浅間神社の石段に使われている平たい石は「ヘギ石」」と言われ石室に使われていたものです。
⑮頂上の電波塔(でんぱとう)
谷津山には、シンボル的な二基の鉄塔が建っています。(二基で一対だそうです)
昭和6年(1931)NHK静岡放送局が柚木に開局され、その時のラジオ電波塔が谷津山の上に建てられました。局舎は、当時としては斬新な、赤い屋根、白亜の局舎が特徴でした。この電波塔も昭和36年(1961)電波の出力改正時に廃止され、東海大学に譲られました。
この電波塔の設計者は東京タワー、大阪通天閣(二代目)や名古屋テレビ塔を設計した内藤多仲博士です。内藤博士は、塔博士と呼ばれた我が国を代表する耐震設計の権威者で全国に30基建設しています。当時の気象観測データが無いなかでの設計は大変だったようですが、内藤博士の建てた鉄塔はひとつも倒れていないそうです。
⑯妙栄山安立寺(みょうえいざん あんりゅうじ)
安立寺は、寺伝によると平安時代の創建と言われ、谷津山麓にあって真言宗妙栄寺と称していました。その後寛永8年(1631)駿府寺町に移転しましたが。昭和6年都市計画によって現在の春日3丁目に移転しました。
お寺の入り口にある左右2基の「南無妙法蓮華経」題目碑(日蓮系の寺院などにおいて勤行の際に唱えられる文句のことで、これを刻んだ碑)のうち右側は新しいのですが、左側の題目碑に元禄元年(1688)の在銘があり、寺町時代に建立された古い碑です。「法」以外の六文字の筆端を髭のように躍らせて書いた独特の書体を用いることから別名「髭題目(ひげだいもく)」とも言われます。
安立寺で特筆すべきは、森田鶴堂の“漆喰彫刻”(こて絵)の数少ない遺作が保存されていることです。安立寺は “伊豆の長八、駿河の鶴堂”と言われた名工の森田鶴堂の墓があり、森田家の菩提寺です。多くの作品が二丁町の遊郭や市街地にあったことから静岡大火や戦災で焼失してしまい残念です。今は僅かに、ここ安立寺内陣壁の「十六羅漢壁画及び二天女像」、正面入口鴨居上に「十二支額」の他、両替町の不去来庵渡邉家仏堂(国登録有形文化財)の左官棟梁として扉や窓の鏝絵施工(仁王像金剛力士像一対)、そして手越東林寺「十六羅漢図」などが残されています。
⑰曲金観音堂(まがりかねかんのんどう)
観音堂のある曲金は狐ヶ崎と呼ばれた地で、正治2年(1200)1月に梶原景時一族と在地武士が戦った古戦場で、観音堂は合戦の戦死者供養のため、昭和63年(1988)に十一面観音を勧請して建てられました。
「吾妻鏡」によると、梶原景時らは上洛するため相模の国の一宮館を発った後、駿河国清見関で在地武士に襲撃され、狐ヶ崎で合戦に及び、子の景茂・景国・景宗・景則・景連らが討死。景時と嫡男景季・次男景高は、後方の山に引いて最後を遂げたと言われています(梶原山)。
曲金には景時の愛馬「磨墨」の伝説が残された馬頭観音もあります。
⑱軍神社(ぐんじんじゃ)
軍神社はその創立は明確でなく社記によれば、祭神は、いくさ神である武甕槌命(たけみなかづちのみこと)を祀る。言い伝えによると日本武尊が東征の折、陣地となし戦勝を祈願したという伝承があります。その後、坂上田村麻呂が桓武天皇の命を受け蝦夷平定を記念して801年に創建されたとされています。
境内には、計9本の立派なクスノキの巨木があります。大きなものは幹の周囲が8mほどもあり、樹勢も勢いがよく圧倒されます。珍しい砲弾型の慰霊塔があります。
⑲唱歌 “背くらべ” の碑
谷津山近くの曲金が学童唱歌“背くらべ”の作詞者海野厚が生まれ育った場所で、明治42年に静岡西豊田小学校を卒業しました。
海野厚は、“背くらべ”の他にも”おもちゃのマーチ”など、たくさんの童謡を作詞しています。
⑳昔の谷津山は大きかった
皆さんが谷津山に登ろうとすると、とっつきの登山道はどこも急ですね。昔はもっと緩やかな山だったと思われます。明治以前までは、自然のありのままに道が付けられましたが、明治以降は、経済発展に伴って、利便性が重要視され、道路整備のために谷津山が削られ大きく変貌しました。
・それを物語るところの一つは、北東の方面です。
静鉄の長沼駅から北に向かい愛宕霊園まで道路になっていますが、実はここも谷津山の尾根でした。観音山(茶臼山)を見ると、繋がっていたかという実感が湧くと思いますが、流通通りの先にある静岡農業高校あたりまでと言われると信じられないかと思います。静岡東中学校郷土研究部の皆さんが、1980年に調べてくれた『谷津山周辺の研究』にも、農業高校の校庭の所の字名が「太ヶ崎」という尾根の先になる地名だと言っています。
・2カ所目は東海道の所です。
「明治期の谷津山の地図」を見ると、東から来て長沼(一里塚)・柚木を経て、軍神社・曲金観音のほうをまわって、横田(東見附)・伝馬町通りへと来ます。これを見ると谷津山最大の南尾根が軍神社辺りまで張り出していたことがわかります。
その名残として、東海道本線に乗って静岡駅から東静岡へ行く途中に小さな小さなトンネルがあります。その後、静岡鉄道や国道1号線や東海道新幹線などを通すときには谷津山の尾根が削られてしまったからです。現在面影を残しているのは、旧春日丘団地あたりの傾斜だけです。
・3カ所目は愛宕さんの北西に伸びる尾根です。
昔は北街道に接していました。ここには横内川に架かる眼鏡橋とか水車小屋等があって、その光景は行き交う人々の心を癒していたことでしょう。今はバイパスができコンクリで保護された谷津山の姿しか見られません。
さて谷津山は、この3カ所以外でも、宅地開発で平坦にできそうなところは削られてしまい、今日のように急傾斜地の多い山になってしまったようです。でも見どころや魅力ある史跡が沢山ありますので、お天気の良い日にハイキングを楽しんでください。